こんばんは。3回生の中村です。

今日から始まる相内啓司先生の個展、

「重力の光景」「イメージへの回帰」同時開催に際して

個展に向ける思いや私たち生徒に何を伝えたかったのか、などなど。

普段めったに耳にすることのない先生の熱い想いを取材してまいりました。

 

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− まず、先生が芸術の道に進もうと思ったきっかけはなんですか?

物心ついた6歳くらいの頃から絵を描いたり工作をしたりしていたので、

その頃からもう僕はこういう道で生きるのかなと思ってたんです。

小学校の頃から絵はけっこう上手くて(笑)

中学校は美術部で部長をしていました。

その時の美術の先生が熱心な先生で、

その先生が僕が描いたものとかつくったものとかを全部いろんなコンペに出してくれてて、

そのおかげで毎月何かの表彰を受けてたんです。

あとグラフィックデザインとかね。

 

高校の時は、将来を考えて理系のコースに進みました。

絵とかやっても食べていけないんじゃないかと思って。

理系にいったらなんとかなるだろうという安易な考えだったと思います。

でもそれと同時期に映画研究部に入ってて、それが面白くてたまらなかった。

僕の地元の北海道、旭川の映画館のフリーパスがあって、いろんな映画を観れたんです。

その当時流行りはじめたヌーヴェルヴァーグとか

その類いの実験的な映画を高校1年生の頃から見始めて、映画って面白いって思った。

自分でも映画をつくりたいと思って撮ったりしてました。

それまでもずっと映研でゴダールとかシュルレアリスムとかダダイズムとか

哲学の本とかいろいろ読みはじめて、そういう世界に興味を持っていたんです。

 

理系ってテストばっかりで高校3年生の時に、

大学になってもこんなテストばっかりは嫌だと思って

そこでやっぱり好きだった美術の道にいこうと思いました。

それと、とにかくこの田舎から出て東京に行きたいという想いが強くて。

先輩も日大の芸術学部にいたりとか、その当時実験的な映画も含めて

新しい映画雑誌がたくさん東京に溢れてて。

今でいう松本俊夫とか波多野哲朗とか、かわなかのぶひろだとかそういう

初期の実験映像作家たち、戦後の(1950年代)人たちが活躍しはじめた時代だったんです。

僕はそういうのにたくさん影響を受けて東京に行かなきゃいけないと思った。

ちょうどその頃学生運動の時代でもあったし。

当時、田舎には文化が無いと勝手に思っていました。

最先端が在る場所に行かなきゃと常に焦っていましたね。

そして、一浪して東京藝大の油画科に入学しました。

その頃倍率は50倍くらいでとっても難関で入るのに苦労した記憶があります。

浪人中は絵の勉強をしながらも、

コラージュ作品をつくったり頻繁に映画を観に行ったりしていました。

コラージュっていうのは、要するに構成したり意味を操作したりすることだから

少し映画の編集にも似ているところがあるんじゃないかなと思って。

コラージュをやっていたことで大学受験にもだいぶん役に立ったと思います。

当時はデッサン、油絵、学科試験と3次試験までありました。

油絵を描く試験で特に画面を構成する力というのは

コラージュ制作で培われたものだと実感しましたね。

 

 

− 自然と力が身に付いていたんですね。

ただ絵を描いていても、達者にはなるかもしれないけど、

やっぱり考える力や構成したりする力は必要だと思ってます。

僕はコラージュをやっていたということがなんとなくそれに繋がったというか

どういう風に試験に向き合うかということがそれを通して分かった気がしたんです。

 

 

− コラージュ作品というのは主に雑誌やチラシを切り抜いたものを

平面で構成する作品ですよね?

どのような作品をつくっていたんですか?

シュルレアリスティックなものを目指してつくってましたね。

それに近いのがこれなんだけども。(個展のチラシを指差して)

そういうわけでわりと僕の映像編集の根底には

〝コラージュ〟ってものは大切なところにありますね。

 

 

− ご両親の反対はなかったんですか?

うちの家はわりあいテキトウだったからそういうのはあんまりなかったですね。

母親はあんたの人生だから好きにすればといって背中を押してくれました。

 

 

− 学生運動の時代とはどのようなものだったんでしょうか。

私たちでは想像もできません。

友人も何人か連行されちゃったりね。

当時の大学っていうのはどこもむちゃくちゃで権威だけが

重要視されちゃうような場所だったんです。

 

当時、僕は現象学に関する本を少し読んでいて、

それの考え方っていうのがどちらかというと印象派の考え方に近いんだけど、

簡単に言うと絵というものは終らないものという考え方です。

時間とともに変化するものというか。

そういう点では考え方が少し映画みたいだなとも思うんだけど。

時間の中でどんどん変化していくものが絵と思っていて、

筆をおく時がそのモノが終る時という考え方を持っていました。

 

それで当時僕の考えてること、思っていることを

理解できないような先生から自分の作品を

評価されるのがどうしてもイヤで、

いちばん最初の合評会では自身の作品に″採点拒否″という紙を貼って

評価してもらわなかったなんてこともありました。

 

それから、大学の学則だとか規定だとかおかしいと思うところは

きちんと正して行かないと、と思って一人で抗議活動みたいなことを始めたんです。

例えば、学生のうちは対外的な発表はしてはいけない、

みたいなことを教師に言われたりして。

でもそういうことは全く意味が無いわけじゃないですか。

そしたらだんだんそれに賛同してくれる仲間が増えてきたんです。

面白いもので、当時そういう活動をしていた連中が

今やアートフロントギャラリーっていう瀬戸内国際芸術祭とかを

プロデュースしてるような人たちなんだよ。

北川フラムも、彼はたしか僕のひとつかふたつ上で、

学生運動のリーダー的存在でしたよ。

 

 − すごい時代ですね。

 入学されてからはどのような作品を制作されていましたか?

当時は寺山修司に影響されてみんなそんなふうな映画を撮っていました。

それはそれで面白かったんだけど、

僕はどちらかというと学生運動をやっていたからその活動の記録映画みたいな

ドキュメンタリー調のものばかり撮ってました。

 

全然芸術的な映画にいけてなかったですね、今思うと。

フィルム代も高いし。

当時は16mmフィルムだったから1本撮るのに1万円以上はかかってた。

 

そんな頻繁には撮れないからどうしようと思ってて、

その時にちょうど劇画というものに出会いました。

大友克洋とかそれよりちょっと前の、少し過激なマンガを描く人たちがいて。

まるでゴダールの映画みたいな感じの。

そういうのに影響を受けて描いてるマンガ家さんがいるんだということを知って、

僕もマンガを描きたいと思ったんです(笑)

 

 

− そんな時もあったんですね。

そうそう(笑)

ちょっとアバンギャルドな作風の。

今思うと、そういう恵まれた偶然の多い人生の中でいろんなことをやってきましたね。

その頃には学生運動もちょうど下火になってきていて。

でもその当時の考え方とか権威とか、そういうのに縛られたくないという、

そんな気持ちはずっとあって。

 

大学は追い出されるように卒業しちゃって。

就職先もろくに考えていなかったので、けどとりあえず稼がなきゃと思って

手塚治虫の虫プロダクションを受けたんです。

あんまりきちんと説明を読まずに面接に行ったんだけど、

その時に募集していたのはイラストを描く人じゃなくて、

トラフィックっていう原稿を届ける役目だったの。

当時僕はまだ免許を持ってなかったから当然受かるわけもなく(笑)

 

その後いろいろ調べてたら同じようにある漫画家が

アシスタントを募集してたのでそこに応募して働くことになりました。

その人は長谷川法世っていって当時は売れっ子の漫画家だったんです。

その人のところにポートフォリオを持って行って、

無事合格して彼のアシスタントを始めました。

 

あとは美味しんぼのマンガを描いてた雁屋哲と友達になって

一緒にマンガを描かないかって話にはなったんだけど残念ながらそれは実現出来なかった。

交友関係は続いたんだけどね。

彼はその頃電通にいて、周りの仲間に映画人だとかデザインしてる人がたくさんいた。

その中の一人がPR映画撮りながらデザインの仕事もやってる人がいて、

会社を設立するから一緒にやらないか?という誘いを受けたんです。

だからマンガのアシスタントは3ヶ月位で辞めて、

その会社の立ち上げメンバーに加わりました。

そこが小さな広告代理店で、

大きな会社に戦いを挑むみたいな感じでなんとか頑張ってやってましたね。

 

 

− 従業員は何人くらいの会社だったんですか。

最大で10人くらいだったかな。

社長のコネクションで保ってたようなもんだったから。

社員はみんな東大の美学出身で、あと数人は僕がつれて来た友達だったから、

東大生と藝大生で成り立ってた会社だったの。

 

 

そんな感じで昔はなんでもやってたな。

1980年代にも西武百貨店の中にあったスタジオ200の文化事業の社員として

伊東高志もいたんだよ。

そういうごちゃごちゃした時代で面白かった。

 

けっこうアートプロデュースとかディレクターもたくさんやってましたね。

今でこそ有名だけど3DCGまがいのエフェクトを使った

新しいCMなんかがアメリカから入ってきたりして、

そういうのをクライアントに紹介するだとか、そんな仕事。

 

日本アニメーション協会っていうのがあってそこの会長は手塚治虫だったんだけど、

他には川本喜八郎とかがいたりして。

当時の有名な漫画家さんはほぼここに集まっていた。

その辺の連中と知り合ってその中に企画力のある人がいなかったから

代わりに僕がイベント企画してやったりしてた。

他にもワークショップやったりとかシンポジウムやったりとか。

 

 

− どのくらいの年齢層を相手にしたワークショップですか?

基本的には大人だね。大学生とか。

 

− どんなことなさるんですか?

例えば手塚治虫が二次元で動かしてる鉄腕アトムと、

アニメーションで動かしてるアトムは全然違って。

こういうところが違うんだよって話だとか。

だいたい一週間くらいで一人の作家に教えにきてもらうというような感じでやってましたね。

有名な人でいうと、広島国際アニメーションフェスティバルの

プロデューサーを務めた木下蓮三さんとか、他にも鈴木伸一や古川タクだとか。

 

大体1回のワークショップに5、6人の生徒という感じだったかな。

それにきてた生徒のひとりが、最近公開された「この世界の片隅に」の片渕須直監督なの。

 

 

 

 

先生の話を聞きながら、当時はいかに波乱で活気に溢れていた時代だったんだろうと

なんだか羨ましくなりました。

次の記事では今回の個展に対する意気込みを語って頂いております。

是非ご覧ください。

 

相内啓司個展「重力の光景」http://seika-eizo.com/2350